雑多にノイズな

読書感想文を中心に色々。

読書感想文『苗字と名前の歴史』

この記事は、坂田聡『苗字と名前の歴史』(吉川弘文館,2006)の読書感想文(再読)です。

修正:「感想」1段落目(2024.1.26.9:15)

内容紹介(ネタバレかもしれない)

前近代日本における名前の基本事項(氏・姓・苗字の違いや、一生における名前の変化など)をおさえた上で、中世村落の史料に残る人名を分析し、村落社会のあり方、特に「家」制度の成立を浮かび上がらせる。

幅広い時代・地域を扱って「名前の歴史」の全体像を描き出すというよりは、特定の時代・地域に的を絞った分析を中心とし、そこから日本の歴史・社会を考える一冊。分析の対象とした史料の由来や、そこからどのようなデータが得られたのか、そしてその分析の内容をざっと教えてくれているので、歴史研究の方法に少し触れられる気がした。 

さて、人名から村落社会のあり方を探るとはどういうことか。まず「家」制度については、家の名前である「苗字」の発生や、父から嫡男に名前(家名・屋号)が受け継がれるようになる時期を探ることによって、いわゆる「家」社会の成立時期を探っていく。

また、個々人が名乗れる名前の違いから、その社会に存在する身分差・階層差を見出していく。中世日本においては、「名前」に身分・階層が現れていたからである。
というのも、中世の村には「宮座」と呼ばれる組織があり、そこのメンバー(座衆)として成人儀礼を始めとする儀式(通過儀礼)を経ることで人生の・および村内での立場のステップアップをしていくのだが、その際、「名前」も変えていき、その社会的立場の変化を表していた。しかし、まず女性は座衆になれなかったし、男性にも座衆になれない下層民がいた。そういった人々は成人しても童名のままであったり、宮座の座衆とは異なる名前をしていたりした。童名のままの成人男性がどれだけいるかは地域差があり、それはその村の成り立ちなどが影響しているようである。一見平等に運営されているように見える村の中にも「およそ宮座の座衆とは思えないような名前を名のっている成人男子」がかなりの数見られるなど、人名に注目することにより、より多面的にその村落社会のあり方を見ることが可能となる。(また、座衆になれる人々の中にも、ランクの高い「官途成り」「入道成り」といったお金のかかる儀式についてはできる者とできない者がいたり、「老衆」といわれる階層には嫡男しかなれないなど座衆の中でも差別が存在していたとみられる。)

さらに女性については、童名を名乗り続けるだけでなく、「男性名=家長(父・夫・嫡男)の名+女/妻/母/娘」という表記がなされるようになり、(公的な)名前を失って夫や父親らの付属物と見なされるようになった事態を見て取ることができる。

ちなみに、「家」制度は封建制とリンクするものではなく、「東アジア伝統社会論」の観点からとらえるべきだとしており(176頁)、個人的にかなり興味のある話なのだが、とても自分には要約しきれないのでここではそういった見解が述べられていたということだけ触れておく。

感想(話がやや飛ぶ)

内容紹介でも書いたが、具体的なデータから分析していく手法に触れられるのが面白い。「人名」という、それまで自分があまり知らなかった切り口で、こんなにも色々なことに迫ることができるのかと驚いた。ちなみに扱われている史料の都合上、男性の名前が話題の中心ではあるが、日本史の本にままある(と私は感じている)女性を無視した内容にはなっておらず、(当然のことだとは思うけど)女性名の章もあるし、ジェンダーの問題を強く意識した書き方になっていたのでそういう面でのストレスは無かった。

著者の見解のように「家」制度が室町~戦国時代から続いており、今の日本で「伝統社会」とされているものとリンクしていると考えると、ちょっと気が遠くなるような気もするが、とはいえ一般的に「日本の歴史」とされる期間において一貫して存在したものではなく、どこかの時期で始まったものに過ぎないともいえる訳で、なんだか少し気持ちが楽になった。そして「家社会=伝統社会」の成立が、「氏から家へという、言うなれば「進歩」でも「発展」でもない、社会の基礎単位となる族集団の構成原理の単なる転換」(177頁)であり、今またその転換の時代にあるのだとすれば、怖いような気もするし、刺激的で面白いような気もする。「進歩」ではないのかもしれないけど「崩壊」でもないのだろうから。「東アジア伝統社会論」について、本書で紹介されている研究を読んでみたいなと思った。

話がやや逸れてしまったついでに、さらに個人的に、細かいところで興味を持った点を述べると、中世近江国菅浦住民の「その他の字*1の実例」(89頁)の中の、さらに「その他」に分類された名前が気になる(内容説明の章で触れた「およそ宮座の座衆とは思えないような名前」もここに入る)。いずれかの類型に入れることができるような名前は、ちゃんとした・立派な字面ではあるものの、どこか画一的でつまらなく、それに比べて「その他」の字は、もちろん差別の結果もあるのだろうから面白いと言っては悪いのかもしれないけど、どういう由来があるのか気になる名前がたくさんある。「嫁太郎」とか…

 

訂正:目配せ→目配り (2024.1.26.0:29)→削除

*1:あざな。おめでたい漢字二字(男性の場合)の訓読みである「実名」とは別に、日常的に使用していた通称で、源次、平三といった姓を含んだものや、衛門、兵衛など朝廷の官職名を取り入れたもの、一郎、三郎といった出生順と関係のあると思われるものなど(などなど…)がある。

読書感想文『日本の女性名―歴史的展望』

この記事は、角田文衞『日本の女性名―歴史的展望』(国書刊行会、2006)の読書感想文です。

 

本の紹介

この本は、1980年~1988年に教育社から刊行された『日本の女性名―歴史的展望』全三巻をもとにした一冊。日本史学における本格的な女性名研究の先駆けとされる。

日本の女性の名前(下の名前)について、邪馬台国卑弥呼から昭和の新生児まで、一般庶民や奴婢から貴族・皇族まで、童名から法名や戒名まで、膨大な史料に基づいて述べる。
ただし近代についての記述は簡略なものとなっている(琉球アイヌの人々の名前についてはそこで触れられており、他と比べると僅かな分量となっている)。前近代の女性名については庶民も貴族も数多くの例を挙げて分類・考察されており、豊富な実例を目にすることができる。

本文も注釈も附録もとんでもない分量。とにかく本が物理的に重いので、まずは図書館でパラパラとめくってみるのがいいかもしれない。

メインの感想

本の紹介でもしつこく書いたがとにかく情報量が半端ない。史料に見出される女性名を大量に抽出し、分類しているので、見ているだけでその時代その時代の様相やその変化を感じ取ることができる。ただ、こちらの知識不足かもしれないが「もっと説明がほしい…」と思う部分もところどころあった。

こうして読んでいると、まだまだ男性を中心に語られがちな「日本の歴史」において、当然ながら人口の約半分は女性であり、多様な一人一人が生きていたんだなぁと実感させられる。と同時に、「女性」がまるごと差別されていく様子もまざまざと現れていてつらくもあった。

ところで著者曰く、この本が書かれた頃はまだ女性名史の本格的な研究が始まったばかりであるということで、自分にはこの本はとにかく広く範囲を広げて「ここから各々、気になるところを掘り下げてゆけ!」と言われている気がした(著者もあとがきで「後進の方々が著者を乗り越え」ていってほしいと書いているし)。自分がそこに連なることができるつもりでもないが、少しばかり思ったことを書いてみたいと思う。素人考えながらふたつ挙げたい。

ひとつは、元の史料そのものの性質とそこに現れる女性名との関係をもっと検討することができるのではないかということ。本書を読んでいて少し物足りなかったこととして、その時代・その身分の女性名をとにかく抽出しているという印象で、元の史料それぞれの性質による違いなどは(なかったのかもしれないが)それほど検討されていない様子であった点がある。というのも、古代の女性名について、戸籍とそれ以外とで異なる記述方針があるのではないかという指摘を見たことがあったからだ。*1具体的にいうと、本書では単に古代の庶民女性名の接尾語とされている「売(女)」という文字について(たとえば宿奈売、黒売、根売といったように、名前の最後に「売」が付く)なのだが、現存する古代戸籍上で全ての女性(約2000名に及ぶらしい)が例外なく「○○売(女)」の名で登録されている不自然さと、別の史料では10人ほどの女性全員に「売」が付いていない例があることから、戸籍作成者が男女の区分のために一律に付けた記号ではないかと指摘されているのである。女性名はいわゆる「家」社会成立以前はかなり多彩であるのだが、どういう史料にどういう名前が現れているのか、という視点で見ると何か新たに見えてくるものがあったりするのではないか…と自分は憶測しているのである。

もうひとつは、男性名との比較だ。これは著者がたびたび男性名との類似点や相違点に触れていることから思ったことで、一般に「名前」の歴史研究というと、女性名/男性名を別々に取り上げるものが多いように思うが、共に調べていくことで見えてくるものもあるかもしれないと思った(史料の制約上できないのかもしれないが…)。

…などと長々と書いたものの、初出がもう30年以上前の本であるので、このあたりももうとっくに研究されているのかもしれない(知りたい)。

それはさておき、自分は古代~中世史に特に興味があるので以上のような点に関心を持ったが、何度も言うように少しでも「名前」が残っている例について幅広く取り上げられているので、興味深い話・もっと知りたいと思う話はたくさんあった。たとえば江戸時代にもなると上流階級ではない人々のエピソードでも残るようになってきているためか、読んでいてつらい話もある一方で興味深い人物やなかなか豪快な人物がいたりして面白かったりもした。

とりとめのない感想

  • ごくたまにではあるが、著者のジェンダー観が不快なときはあった(私が過敏なだけかなという些細なことから、ちょっとその言い草は酷いのではないかというものまで)。
  • 個人的に気になるのは、室町時代までは、男性にも似たような名がある例や、男性名と見分けがつかない(文脈で女性と分かる)例があるらしいこと。現代では、名前で性別が判別できることの方がむしろ「普通」であるが、名前が必ずしも性別を表さない時代があったのかも…というのは私の希望が入り過ぎた見方だろうか。
    ひとつ、印象的だった例を取り上げたい。室町時代常陸国茨城郡六段田村の六地蔵寺の過去帳が引用されているのだが(222頁)、そのなかに次のように書かれている人物がいる。
      妙徳 当寺下女。号太郎。
    「妙徳」という戒名のこの人物は、生前はこの寺の下女であり、「太郎」と呼ばれて/もしくは名乗っていたということである。これ以上の情報は無いので、著者も「興味深い」と述べるにとどまるが、もしこの人物について生前の名前だけを目にしたら、現代人はまず女性だとは思わないだろうと思うと興味深い。そしてどうやら他にも例があることらしい(161頁、鎌倉時代)。
  • 話は逸れるが、犬もいつからか社会的地位が低下した(?)ようである(186頁)。
  • かつて創作漫画を描いていた頃の自分だったら、キャラクターの名前の参考にしただろうなと思う。時代別・身分別になっているのでそういう点でも使いやすい気がする。余談だが見た目も辞書のようである。

*1:義江明子『つくられた卑弥呼ちくま学芸文庫、2018、148頁。初出2005

久しぶりの更新

90日以上更新していなかったから広告が表示されていた。読書感想文を書きたい本が溜まってきたからまた書いていきたいと思っています

近況としてはあんなに使っていたTwitter(現X)をやめて別のSNSをいくつか使うようになった。色々と愛想を尽かすポイントが積み重なっていたのだが、最終的に「Xのロゴが趣味じゃない」という理由が決定打となってやめた。好きなアーティスト等の情報を得るには少しだけ不便にはなったけど、それ以上でもそれ以下でもない感じ

読書感想文『ジェンダーと脳ーー性別を超える脳の多様性』

ダフナ・ジョエル&ルバ・ヴィハンスキ著・鍛原多惠子訳『ジェンダーと脳 性別を超える脳の多様性』紀伊國屋書店(2021) の感想文。

 

(はじめに、本が手元にない状態で書いている感想であるため記憶違いや勘違いがあるかもしれないことをお断りしておきます。)

 

すごく「納得感がある」というのが一番の感想。

 

自分の覚えている&理解した範囲で要約すると、人間の脳に「女脳」「男脳」というものは、ない。膨大な数の脳を様々な着眼点で調べた結果、女性と男性とを分けて集団で見た場合にはたしかにその「平均値」に性差は存在するが、個々の脳を見るとそう簡単な話ではなくて、ひとつ(一人)の脳の中で「女らしい」部分と「男らしい」部分とがモザイクのように存在しており、その組み合わせは千差万別で、「きわめて女らしい/男らしい脳」というのはむしろ稀である。ある部分では「女らしい」が、別の部分では「男らしい」、そのパッチワークが我々の脳である、と。更に脳は変化をする。そして、そのように千差万別な脳をそれぞれに持つ多様な人間を、男女というふたつの枠に入れてしまう(しかも生殖器の型によって)ことが果たして適切なのか。それを乗り越える提案もしている本。

 

自分の「(一応)女」だという自認と、にもかかわらずそのしっくりこなさ。「女らしさ/男らしさ」なんて社会の要請によって作り出された幻想に過ぎないのではないかという疑念と、しかしながら性差や「女らしさ/男らしさ」というものが「ある」としか言いようのない、目の前にある個々の現実。「脳のモザイク論」はそれら全てに説明がつくもののように感じて、自分としてはすごく腑に落ちる内容だった。

 

また、自分は男/女という二分法はもちろん、性を「グラデーション」として捉えたとしてもどこか居心地の悪さを感じてしまうのだが、誰もがそれぞれに異なるモザイクの脳を持っているのだ、と考えると気が楽になる。というのはつまり、どこかに自分を(無理に)位置づけなくてもいいのだと思えるから。そんなことをしなくても、たしかに自分はここに存在しているのだ、と。…うまく言えないが、新たな視点を得られた感じ、景色が変わるような感じがした。あと自分に「すごく女らしいところ」と「すごく男らしいところ」があったとしてもどちらかが嘘とか欠陥とかいう訳ではなく、どちらも間違いなく自分自身なのだと思っていいのだ、否定しなくてもいいのだ、とも。

初めて同じ映画を2回観に行った

もう1ヶ月以上前になるが、映画「犬王」を観に行った。

映画館に行くこと自体が久しぶりだったのだけど、すぐ後の映画館サービスデーが代休になったので早速もう一回観に行った。記憶にある限り、同じ映画を映画館で2回観るのは初めてだ。

以下、ネタバレ考慮しないのでお気をつけくださいませ。

 

↓公式サイトのストーリー紹介文を挟んでおきます。

室町の京の都、猿楽の一座に生まれた異形の子、犬王。周囲に疎まれ、その顔は瓢箪の面で隠された。
ある日犬王は、平家の呪いで盲目になった琵琶法師の少年・友魚と出会う。名よりも先に、歌と舞を交わす二人。 友魚は琵琶の弦を弾き、犬王は足を踏み鳴らす。一瞬にして拡がる、二人だけの呼吸、二人だけの世界。
「ここから始まるんだ俺たちは!」
壮絶な運命すら楽しみ、力強い舞で自らの人生を切り拓く犬王。呪いの真相を求め、琵琶を掻き鳴らし異界と共振する友魚。乱世を生き抜くためのバディとなった二人は、お互いの才能を開花させ、唯一無二のエンターテイナーとして人々を熱狂させていく。頂点を極めた二人を待ち受けるものとは――?
歴史に隠された実在の能楽師=ポップスター・犬王と友魚から生まれた、時を超えた友情の物語。

https://inuoh-anime.com/ より。

2回観た経緯と感想

さて、1回目観たときには実を言うと、はっきり「良い映画だった!!」と即答できる感じではなかった。個人的な理由もあって集中できていなかったし*1、なによりあまり観たことがない感じの映画だったから。ずっと歌ってるじゃん。前情報そんなに入れずに行ったから、「ず…ずっと歌ってない!?」って戸惑った。

改めて紹介文や他の人の感想も読んだりして、考えてみると自分は「アニメ内で歌や語りが描かれるときのイメージ」みたいなものがあったのかもなーと思った。というのは、なんというか、そのキャラが歌ったり語ったりする、その内容が実際に絵で描かれることを自分は無意識のうちに想定していたのかなぁと。イメージ画像みたいなね。しかしこの作品ではずっと、歌っている犬王や友有が描かれている。それが初回の自分には「長い」と感じられたのかもしれない。でも、この映画は「平家物語」ではなくて「犬王」なのだよね。それに気づくと、「もう一度、しっかり『犬王』を観たい」と思った。

というわけで2回目。この映画ってあんまり「説明」をせずに突き進んでいくから、2回観て初めて「ああ、ここはこうだったのか!」みたいなことが色々あって。それに初回はほとんど犬王と友有しか見ていなかったから、周りの人たちにも着目して観るとますます面白かった。犬王と兄たちは大人になって関係が改善したのかなぁとか。色々。

ライブシーンも「これは友有と犬王の物語なのだ」という前提で見ると全部心底楽しめた。そう、「ライブシーン」なのだよねあれは。
(あと、犬王はふつうに「みんなに人気」だけど友有は一部に熱狂的なファンがいそう、とか思った。「でもアタシは友有様派~」って会話がされてるよね絶対。)

 

犬王と友有、あと「名前」について

「名前」ていうのはこの映画においてひとつのキーワードだったと思うのだけれど、自分のイメージでは前近代の日本ではまさに友魚(友一、友有)がそうだったように、成人するなど社会的立場が変わるのに従って変えていくものだと思うので、「とと」が「名前を変えると見つけられない」と繰り返し主張しているのはどういうことなのかなぁ…と考えたりしたのです。今になって思うには、幼い頃の苦しみや復讐心が、彼を子ども時代に縛り付けてしまう、あるいはそこに引き戻してしまうみたいなものを表しているのかもな、と。犬王と出会って、友魚の過去を振り切って友有になれたのに、その名を奪われたために友魚の復讐心が再び燃え上がってしまった…みたいな。

犬王と友有については、たしかこれは同じような感想をいくつも目にした記憶があるけど、分かり易く「天才」で舞台の中心にいて己の名は当然のように己で付けるような犬王が意外とさっぱりと社交的で渡世のための嘘もつけるのに対し、犬王のような天才では(おそらく)ないけれども独特の魅力があり、その相棒的存在であり一番のファンであり本人にもたぶん一定のファンがいそうな…友有が社交苦手で不器用そうで自分たちの物語に殉じようとするところ、意外な気もしつつすごくしっくりもくる…と思った。もちろん、犬王の因縁はかたがつく一方で友有はそれに蓋をしているだけだし、元凶がまたもや足利将軍だということも大きいだろうから一概には言えないけど、その対比が面白いし、ちょっとゾクゾクする関係性だった。

 

観た直後に書いた個人的な感想文はA5ノートに4ページぐらいびっしり書いてあるんだけど…改めてちゃんと書こうとすると難しいな。そして書いていたらまた観たくなってきた…
余談ですが1回目観た後は鯨の歌が、2回目は「腕塚」が頭の中でぐるぐる回っていました。

*1:誘った連れがいたので、その人が楽しんでいるかどうかが気になったりとか…これはこの映画に限らず自分がいつも考えてしまうことなので、今思うとじゃあ一人で行けば良かったのに…映画館久しぶりだからそういうの忘れてた。ちなみに面白かったらしい。よかった。

日記:2022年7月9日(土)

久しぶりに小説を買った。

昔はよく読んでいたのだが、ここ数年はほとんど読んでいなかった。読んだとしても海外ミステリ…というかアガサ・クリスティ作品だけか。最近読んでいたのは人文書や硬めな新書ばかり。「作り話なんて読んでも無駄だ」的ないけ好かない理由ではなくて、なんというか、小説を読むのにどこか勇気が要ったのだ。

いや、「作り話なんて読んでも…」という気持ちが全くなかったとも言い切れない。もちろん人文書等が面白かったからというのが一番大きいのだが、同時に、スキルもキャリアも金も積めず、ただ歳を重ねる日々のなかで焦りから知識欲が高まっていたというのもあるだろう。すがっていた面もある。両方あったと思う。ポジティブな知識欲とネガティブな知識欲が。

とはいえ、小説を読まなくなったのは他の本に気を取られていたからというよりは、小説を「読みたい」という欲が無くなってしまっていたからだった。没入することに躊躇していた。怖い、とまでは言わないが、物語の世界に飛び込むことにハードルを感じるようになっていた。

昔はよく読んでいたから、そんな自分の状況が少しさみしくもあった。一種の「老い」なのかな、と考えていた。とはいえ「読まなければ」というこだわりも無かったから別にそれはそれでよかった。それが2022年の半ば頃になって、急に書店の小説コーナーで立ち止まることが増えた。理由は分からなかったけど、本を開いて、並んでいる活字を眺めるだけで心が安らいだ。

2022年7月8日、夜のテレビ番組はほとんど同じニュースを扱っていて、私はそれらの映像や音声に触れたくなくてEテレをつけていた(ちなみに久しぶりに観たEテレはかなり面白かった)。その翌日、書店で平積みされていた文庫本を買った。

小説を読めなくなったのは心が弱っているからだと思っていたが、そういうわけでもなかったらしい。なぜなら今の私のこれは完全に逃避だからだ。小説の世界に没入したい。「本当にこんなのが21世紀なのか?」と思ってしまうようなここ最近の現実がつらい。ただ、小説に逃げているのは悪いことではないと思う。これほど完璧な逃げ場所があるだろうか。こうして別の世界でたびたび休みながら、この現実を生きていくのだ。(それに、小説を読んで想像力・共感力が養われたことが人権理念の基盤になった可能性がある、というようなことが読みかけの硬い新書に書いてあった。)(…私のそういう、なにかと「メリット」を求める癖がメンタルに良くないんじゃないか?)

読書感想文『差別はたいてい悪意のない人がする』

キム・ジヘ『差別はたいてい悪意のない人がする』大月書店、2021

 

最終章近くまで読んで最初に戻り、途中まで読んでは中断してまた最初から読み…で、やっと読み終えた。めっちゃ良かった。この本を読めて良かったし、手当たり次第にひとに薦めたい本だ。

 

内容ももちろん良いんだけど、邦題がまた素晴らしいよなー…と思う。差別問題において「そんなつもりじゃなかった」はほとんど言い訳にはならないよな。差別してやろうと思って差別する人なんてそうそういない。でも差別はこの世にありふれている。傷ついている人がいる。不当な扱いを受けている人がいる。

 

でも正直言うと自分は、最初は「あ~、いるよねそういう人。」って感じで、半分他人事みたいな気持ちで読んでいた(「誰もが差別をし得るのだ」ってことを言ってる本なのに)。だから、「高校の成績別クラス編成」についての話を読んでいるときも、「ふーん、私の周りではそんな感じ無かったと思うけどな~韓国は学歴社会って言うからなぁ」って最初は思っていた。でもそこでようやく気づいてはっとした。そうだ、自分は「学校の勉強」はできるほうだった。特権を持っている側だったのだ。これが「差別が見えない」というやつなのでは、と。

 

(余談ですが感想文を書くにあたって当該箇所を見返したらだいぶ中盤で、「ここまでそんな認識で読んでたんかい!」って思った)

 

そのことだけが理由じゃないけど、「この本は大切に読みたい」と思って、行ったり来たりしながらつい先日やっと読み終わったのだった。全行に線を引きたいくらい、考えさせられる内容盛りだくさんで、何度も本を閉じては天を仰いだ。ただ―差別という重い問題について扱っている本にこんな言い方は適切なのか分からないが―新しい発想を与えられ、視界を広げられる気持ち良さもまたあって、読んでいて決してしんどいばかりの本ではなかった(というか、知識欲が満たされてわりと楽しかった…)

 

でもここで満足して学ぶのをやめては危ないんだろうな。本書でも「人は、自分が客観的で公正な人だと信じていると、自己確信の力によって、より偏向した行動をとる傾向がある」(p.120)ってことがいくつかの実験を挙げて示されているし。

 

あと思ったのは、「差別をしない」っていうのは「しない」という字面に反してすごく積極的なことなのではないかなということ。なんというか…決意をもって行動するような類のことというか。差別が既に組み込まれている今のこの社会においては、「フツーに」行動しているだけで知らず知らずのうちに差別的な言動をしてしまうことはもう、いくらでもあり得るし、既に傾きのある社会に立って「公平」を成そうとするのは簡単なことではない、ものすごく複雑で繊細で難しい作業なのだと思い知らされた。「善意」だけで差別はなくならない。必要なのは「知識」だ。

 

きっと私もこれからも過ちを犯すことはあるだろう。怖いことだけど。せめてそれを指摘されたときに無理な正当化を試みたりしない人になりたいな、と思う。(実際そのときになったら難しいんだろうな…とも思うけど。できればそうありたい。)